「初心忘るべからず」
誰もが一度は聞いたことがある言葉です。
しかし私は最近、この言葉の意味を少し違った角度から考えるようになりました。
この言葉を残した世阿弥は、
「初心忘るべからず」を三つに分けて説明しています。
是非の初心忘るべからず
若い頃の失敗や恥を忘れるな。
時々の初心忘るべからず
年齢や立場が変われば、その都度新しい初心がある。
老後の初心忘るべからず
年を重ねても、その年齢に応じた新しい学びがある。
一般的には、
「初心者の頃の謙虚な気持ちを忘れてはいけない」
という意味で解釈されることが多いと思います。
もちろんそれも正しいでしょう。
しかし私は、これを
「人は人生の中で何度も非利き手になる」
という意味にも読めるのではないかと思っています。
例えば営業の仕事で優秀だった人が管理職になる。
営業ではベテランです。
しかし管理職としては初心者です。
部下の育成や組織運営は、まったく別の能力が必要になります。
つまり、
営業では利き手だった人が、
管理職では非利き手になる。
職人でも同じです。
現場では一流でも、
後輩を育てる立場になると戸惑うことがあります。
教える技術は、作る技術とは違うからです。
これは高齢者にも言えると思います。
若い頃には経験しなかったことが次々と起きる。
体力の変化。
家族構成の変化。
仕事からの引退。
デジタル機器やAIとの付き合い。
人生の後半には、新しい「初心」が次々に現れます。
私はパソコンや生成AIを教えていて思うことがあります。
受講者の方の中には、
仕事では長年活躍してきた方も少なくありません。
しかしパソコンやAIの前では、
「何も分からない」
と感じることがあります。
でもそれは能力がないのではありません。
ただ、その分野では非利き手になっただけです。
実は誰でも同じです。
得意な分野では利き手になる。
知らない分野では非利き手になる。
人生とは、その繰り返しなのかもしれません。
だからこそ、
世阿弥は「初心忘るべからず」と言ったのではないでしょうか。
初心者だった頃の自分を忘れない。
新しい立場になったら、また学ぶ。
年齢を重ねても学ぶ。
現代社会は、
「何でもできる人」
を理想としがちです。
しかし本当は、
「自分が今、非利き手の状態であることを認められる人」
の方が成長できるのかもしれません。
踏み台塾では、
不器用であることを否定しません。
分からなくてもいい。
忘れてもいい。
何度でも聞いていい。
なぜなら人は誰でも、
人生のどこかで必ず非利き手になるからです。
初心忘るべからず。
それは、
「昔の自分を忘れるな」
というだけではなく、
「これからも何度でも初心者になることを恐れるな」
という教えなのかもしれません。
踏み台塾
